彼と出会ったのは、高校に通っていた頃だった。
出会ったのは、と言っても初めて会ったときに特別印象に残る出来事があったとか、そんな運命的なものは全くない。ただ、たまに行く図書館で見かけることが多かった、という程度の数少ない接点であった。
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お互いに他の利用者を気遣っていたのだろうか、自分も相手も決まって図書館の奥まったところにある六人掛けの机にノートを広げて勉強をしていたと記憶している。
決まって向かい側に軸をずらして座る彼とは特に会話をしたこともなく、挨拶をするとしても軽い会釈程度のものであった。
彼を始めて見かけた時は、その顔の左側を半分近く覆っている痛々しい傷に驚きもしたが、見ず知らずの人間の、それも顔の傷についてとやかく言うような無礼な精神性は持ち合わせてはいないし、何度か顔を合わせているにも関わらず傷に対して新鮮に驚くほど他人の顔を記憶できないわけでもないから、次第に彼の傷も髪型や目の色程度の、ただ人ひとりを識別する個性としての認識に落ち着くのである。
さて、自分が彼を図書館の利用者の中の一人ではなく一個人として認識し始めたのは確か高校二年生の秋頃、木々が色付いてきたあたりだっただろうか。
その日は定期試験を一週間後に控えていて、試験勉強の為に図書館を訪れていた。彼も同じ事情だったかどうかまでは俺の知るところではないが、彼も同じように同じテーブルでノートや問題集を広げていた。
先に座っていた彼にいつも通り軽く会釈をして、自分も椅子に座る。図書館内は変わらず静寂に包まれていて、鉛筆がカリカリと紙を擦る音がよく聞こえるほどである。
椅子を引く音でこちらに気付いたようで、彼は顔を上げ、軽く会釈を返す。それから何事もなかったかのように自分の手元にある問題集へと視線を落とし、特にこちらを気にする様子もない。俺も他人の、それもよく知らない相手の様子をいちいち窺うような人間ではないからお互い様である。
そうやってしばらく問題集と向き合って彼と同じように鉛筆を動かしていき、区切りが付いた所で自分の解答と模範解答を照らし合わせていく。
すると、どうにも自分の中で納得のいかない部分を見つけてしまった。
「……んー」
思わず声が出てしまい、それに反応した彼が顔を上げる。しかし、こちらを一瞥しただけですぐに自分の手元の問題集へ目を落とすと再び鉛筆を走らせ始めた。
それから何度か解き直したり、模範解答から逆算してみたりしてみるものの、どうしても計算が合わない。
一問目から飛ばさず一問ずつ解かないと気が済まないような気難しい性質でこそないが、どうしても納得ができない解答があるというのはなかなかに気が散るもので、気を取り直して問題集の続きを解き始めても頭の隅に引っかかってしょうがなかった。
そこでふと思い立って、鉛筆を置いて椅子から立ち上がる。根を詰め過ぎたのだろう、一度外の風に当たって頭を冷やすことに決めた。
中庭に出ると、秋晴れの空が青々として眩しい。少し肌寒くも感じたが、それでも日差しは暖かで、ちらほらとベンチで本を読んでいる人の姿が目に入る。
俺は軽く伸びをして、ずっと机に向かって固まった体をほぐすように二、三回軽く捻った。
それから中庭を軽く一周歩き、再び問題集の続きと向き合おうと先ほどまで座っていた場所に戻ってくると、広げたままのノートの上に折り畳まれた紙が一枚、仕舞い忘れた消しゴムを重石にして置かれていた。
手に取って広げてみれば、整った文字で先ほど唸っていた数式が丁寧に解かれていて、紙の端には『勝手にノートを見てしまってすみません』と謝罪の言葉が控えめな大きさで書き添えられている。
読み終わってから彼の方を見やると、少し気まずそうにこちらから目を逸らしている。と言っても、視線が問題集やノートから少し外れているのを何となくわざと逸らしているのだろうな、と感じただけに過ぎないのだが。
それから手元の紙に再び目を戻し、自分のノートと見比べてみると途中で数値を書き間違えていた、という原因がわかってみれば呆気ないミスで頭を悩ませていたことに気付き、折角解き直してくれた彼に何となく申し訳なくなった。
ともあれ、何度も顔を合わせていたとはいえ見ず知らずの相手に接触するのは勇気が要っただろうと彼の方に目を向けると、ちょうど向こうもこちらを見ていたようで目が合った。
「……あー、その、ありがとう、ございます」
ごく小さな声で対角に座る彼に声を掛ける。声が届いたかどうか定かではないが、口の動きで何となく伝わったのだろう。彼の気まずそうな硬い表情が安堵したような微笑みに変わった。
何度も顔を合わせたことがある筈の彼が初めて見せたその表情を見て、何故か高揚するような胸が締め付けられるような、兎に角言いようもない感情が噴き上がってくるのを感じた。
きっかけにしては実に些細で、平凡であった。けれども──
けれどもそれは、確かに恋だったのだ。