三日ほど降り続けた雨は夜のうちに止み、その日は前日までの雨が嘘のように青空が広がっている。
雨上がりの道に点々とある青空や太陽を映している水たまりを踏みながら歩けば、反射する光が目の端でちらちらと光っているのが見える。
俺は『次に晴れた日に』という約束の通り、傘を返してもらうために家を出た。休日の、それもこの天気とくれば道ですれ違う人影も多く、活気を感じる。
しばらく歩いたところで足を止める。……そういえば次に晴れた日に、とは言ったもののどこで渡すだとか、何時に会うのだとか、そういったことを何一つ話していなかったことを思い出した。しばらく思案してみるが、聞かなかったことを今更どうこう考えても仕方がないと、ひとまず彼と何度も会っている図書館に向かうことにした。
館内は普段よりも人が多く、静かでこそあるものの、人の歩く音や本を動かす音がざわざわと聞こえてくる。
本棚をざっと見て気になった推理小説を一冊手にとり、返却された本を棚に戻している司書の横を通り過ぎていつもの席へと向かう。それから誰も居ないのを確認していつも通り端の方に座った。少し待てば来るかもしれない、と当たりをつけ、少しここで暇を潰すことにしたのだ。
しばらく小説を読み進めていると、とんとんと左肩に触れられるのを感じる。
「すみません、邪魔してしまいましたか」
振り返れば、俺の傘を持った青年が立っている。
「い、いや、暇つぶしにって読んでただけで、別に邪魔とかは思ってない」
彼はそうですか? と首を傾げ、俺の隣にある椅子を引いて座った。
「ふふ、まさか雨が止むのが休日になってしまうなんて思いませんでした」
「俺もだよ、すぐ止むと思ったんだけどな」
「……休日なのに約束を守ってきてくれたんですね」
「まあ、約束したしな」
何故だろうか、彼がこちらを見て微笑んでいるせいなのか、それとも彼がいつものように斜向かいに座っていないせいなのか、妙に落ち着かない気持ちになる。その落ち着かない気持ちをごまかすように持っていた本を置き、頬杖をつく。
「それにしても、時間も場所も指定しなかったのによく会えましたね」
「まあ、ここしか知らなかったし」
そう答えると、確かにそうですねとくすくすと笑う声がした。
「それじゃあこれ、ありがとうございました」
そう言って差し出された傘を受け取る。皺にならないようにきれいに閉じられ、一本の黒い杖のように真っ直ぐにまとめられているそれを見ていると、彼の真面目な性格が伺える。
「……じゃあ、傘も受け取ったことだし、俺はこれで」
「はい、ありがとうございます」
立ち上がり、読みかけの本を本棚に戻しに立ち上がる。
本を棚に戻して振り返ると、いつも座っている椅子にはまだ彼が残っていて、おそらく本を読んでいるようだ。
そのまま帰ろうか、と出入り口に向かおうとして、足を止める。胸の奥底にもやり、とした淀みを感じ、それがなんであるのか理解するより先に体が動いていた。
くるりと踵を返し元いた場所に戻れば、さっきまでと同じように椅子に座っている彼に声をかける。
「──名前を、」
「はい?」
「名前を教えてくれないか?」
「僕の名前ですか? 神崎尊、ですけど……」
このまま帰ってはずっと進展のないままだと思い切って尋ねる。彼は驚いたような顔をして、首をかしげながら答える。
「どうしたんですか? 突然」
「あ、い、いや……こういうのも何かの縁かなって……思って」
「何かの縁──ですか。それならあなたの名前も教えてください。僕だけ知らないのは不公平ですからね」
すべての発端となったあの笑顔とはまた違った笑みを浮かべながら、神崎は問いを返してくる。確かに、人に聞いておいて自分が名乗らないのはおかしいということにハッと気付いた。
「そうだな、俺が名乗らないのは確かにおかしいな。俺は雨沢……雨沢、時也だ」
「雨沢さん、ですね」
覚えておきます、とにこりと笑う彼の表情に心臓が一層大きな音を立てて鳴る。
「それで、どうしていきなり名前を聞いたりしたんですか?」
「それは……」
改めて聞かれると、言葉が出て来ない。一体何と答えればいいのだろう。自分でもよく分からない衝動的な行動だったのだ、明確な理由があるわけではない。ただ、この機会を逃したくなかっただけだ。けれどそれをそのまま伝えることもできず、言葉を飲み込む。
「……よく分からん」
「ふふっ、そんなことあるんですね」
思わず本音を漏らすと、神崎はくすくすと声を立てないように笑った。
「聞きたいのはそれだけで、その──ま、またな」
「ええ。また」
笑ってそう返してくれたことがたまらなく嬉しくて、思わず緩んだ自分の表情を見せないように足早にその場を離れる。
図書館の外に出ると、どこまでも続きそうな青い空が広がっていた。