冬の海は寂しい。そう感じる人間は少なくないだろう。かくいう俺もそのうちの一人である。
この真冬の海に入る物好きはそうそう居らず、ただただ波が何も居ない水面に白く泡を作っている。その上堤防にもほとんど人の気配がなく、釣り糸をぼんやりと垂らしている釣り人の姿がちらほらと見えるばかりである。
さほど海が身近な場所に住んでいるわけではないからわざわざ電車に乗ることにはなったが、目的を果たした今、海を臨む道沿いの柵に体重を預けながら何をするわけでもなくただ海を眺める様を隣にいる恋人は不思議そうに眺めていた。
「びっくりしましたよ、突然『海が見たい』だなんて言い出すものですから」
俺から海に視線を戻して神崎はふう、と溜息を漏らす。確かに、珍しく重なった休日に突然連れ出された先が何も無く、ただただ冷たい海風が吹き付ける海なのだから困惑もするだろう。
「海が好きなんですか?」
「……海、って言うよりもなんだろうな、川とか……なんて言うか、水のあるところが好きなんだ。波の音とか川の流れる音とか、なんか落ち着くだろ?」
水同士がぶつかり白く泡立つ水面を眺めながらそう言うと、神崎はそうですか、と返し、目を閉じて波の音に耳を澄ませる。
俺は海から目を離し、その横顔をじっと見つめた。神崎の黒い髪が風に靡き、左目の辺りに痛々しく残った火傷の痕を隠すように揺らめく。
そのまましばらく無言の時間が続くと、視線に気づいたのか、神崎がこちらを向いて微笑みかけてくる。俺はというと、彼を見ていたのが気付かれた気恥ずかしさを隠すように頭を掻くフリをして目を逸らしてしまった。
「……君って結構照れ屋ですよね」
「悪いかよ」
わざとむくれたように返すと、波の音に混ざってクスクスと笑う声が聞こえてくる。
「いいえ。君とこんな風にならなかったら気づかなかったんだろうなって思ったらなんだか嬉しくなって」
神崎はそう言うと俺と同じような姿勢で柵にもたれかかり、肘をこつんとくっつけてきた。
「俺も知らなかった。自分がこんな……目もまともに合わせられない程照れるようになるとかさ」
神崎の顔を見ないようにしながら答えると、また笑い声がする。
「……でもこんな風になるのは後にも先にもお前にだけだと思うよ」
そう言って横目で神崎を見ると、驚いたような顔で固まっていたかと思えばふいっと顔を背ける。そして表情を隠すように左手を顔に添えた。
「急にそういうこと言うのはずるい……と言いますか……」
海風に揺れる髪から赤く染まった耳が見え隠れする。それが無性に可愛らしく感じて思わずわしゃわしゃと頭を撫でると、喜んでいるような困っているような、どちらとも取れないふにゃふにゃとした声で「やめてくださいよお」と静止が入った。
手を止めると、神崎が顔を上げてこちらに笑みを見せる。その幸せそうな表情に心臓がドキリと大きな音を立て、ああそういえば俺は彼の笑顔に惹かれたんだったと再確認した。
「……あのさ、俺、神崎のそういう顔が好きだよ。いや勿論照れた顔とかほかの表情もかわい……いや、いいなって思うけど。……なんていうかさ、笑ってる顔見ると俺も幸せな気持ちになると言うか……あー、なんて言ったら良いんだろ」
上手く言葉がまとまらず頭を抱えていると、目の前の恋人はクスッと小さく笑う。
「伝わりましたよ、十分」
ぐちゃぐちゃと言葉を紡ぐ俺に笑いかけながらもほんのりと赤くなっている頬がその言葉に嘘偽りがないと語っている。
「伝わりましたし、僕も同じ気持ちですよ。君が笑ってるところが一番好きです」
「そうか。なら、お互い様だな」
お互いに好きだと言って、同じことを考えている。そんな些細なことが妙に嬉しくなって自然と口元が緩んでしまう。
「なんかこうやって改めて言うとちょっと恥ずかしいな」
「そうですね、確かに少し照れ臭いです」
二人で照れたように笑い合いながら海を見る。下ろした手同士が少し触れる距離にある。少し躊躇いながらも思い切って指を絡めると、一呼吸置いて手を握り返してきた。
手袋越しに分かる少し筋張った感触や温度。それだけで胸の奥がじんわり暖かくなっていく気がして、愛しさが込み上げてきた。
「君の手、大きいですね」
手袋をはめた神崎の指が手の甲をすりすりと撫でる。
「まあ身長から考えたらそんなもんだろ」
「ふふ、確かにそうですね」
笑いながら、手の感触を確かめるように何度も握ったり緩めたりを繰り返す。
「何だよ」
「……君は暖かいなぁって思って」
「そうか」
「はい」
そう言うと神崎は繋いだ手にきゅっと力を込めてくる。そんな些細な行為だけでどうしようもなく心が満たされていくのをはっきりと感じた。
隣の神崎の方を見れば、ちょうど目が合って、視線が重なる。そのまま吸い寄せられるように唇を重ねた。
「……ん」
唇に柔らかい感触とほのかな暖かさを感じる。すぐに顔を離せば、神崎は目を丸くしてこちらを見ていた。
「……いきなりはびっくりするんですが」
神崎はそう言うと、恥ずかしそうに俯いて口元を空いた手で隠した。
「ごめん、なんか……つい」
「いえ、嫌じゃないんですよ。ただ、その……びっくりしてしまって」
衝動的にキスしてしまったことを謝ると、神崎は首を横に振って否定した後、照れ臭そうに視線を逸らす。その仕草を見て、やっぱり可愛いなと思ってしまう。
(……って、口で言ったら怒るんだろうな)
以前可愛いと言われて微妙な顔をしていた(まあ当然の反応だろうが)恋人の表情を思い返しながら喉まで出かけた言葉を飲み込むように口を押さえる。神崎はというと、黙ってしまった俺の様子に不思議そうな目を向けてきた。
「……どうかしました?」
「いや、何でもない」
そう答えると、神崎は小首を傾げるもそれ以上追及することはなく、「それなら良いんですけど」と呟き水面に視線を戻した。
「さて、と。……そろそろ帰りましょうか?」
少し経って、海からこちらに視線を移しながら神崎がそう切り出す。
「そうだな、長居しても寒いだけだし」
同意すると、彼は繋いでいた手を解いて柵から離れ歩き出した。
「あ、待てよ」
慌てて後を追う。随分と機嫌が良いように感じるのは気のせいだろうか?
「時也君、今日は連れて来てくれてありがとうございます」
立ち止まって、こちらに顔を向けずに言葉を紡ぐ神崎。
「え? いや、連れて来たって程でも──」
「嬉しかったんです、君の好きな物を共有できて」
その言葉を聞いて、確かに今までは自分の行きたい所よりも彼が何処に行きたいかばかり考えていたかもしれない、と思い返す。こちらを振り返った彼の表情を見るに、本当に嬉しかったのだろう。
「……それなら、また一緒に来てくれるか」
「勿論」
間髪入れず答えてくれた声はいつもより弾んでいた。それが何だか無性に嬉しい。
「また教えて下さいね、君が好きなものとか、好きな事とか」
「わかった」
俺が返事をすれば、神崎は小さく微笑んで再び歩き始めた。隣に並ぶと、こちらを見上げて笑う。それにつられて俺もまた笑みを浮かべた。
冬の風が頬を撫でる。吐く息が白く染まる程に寒い日なのに少しも寒く感じないのは、きっと隣に居る彼のおかげなのだろう。