727×530

 小さな仕事部屋の片隅に、古いキャンバスが置いてある。
 青や白の絵の具が側面や背面にまでべったりとついているそれは、部屋にある他のキャンバスのどれと比較しても異質な物だった。
 手慣らしをしたい時、心を落ち着かせたい時、特に理由がなくても……ふと思い立つと自分はそれと向き合っている。
 そこには何度も描いて何度も削り取られた青の痕跡が残っている。いや、描いたとすら言わないのかもしれない。パレット上で色を捏ね、何度もそこに載せてきた、という方が正確だろうか。
 表面が乾いているのを確認してからそこに新しく色を重ねていく。
 捏ねた空色をべたりと広げてみたり、何も混ぜない白や濃い青を点々と入れてみたり、息を吐くのも忘れて今にも落ちてきそうな青い空をそこに描いていく。
 別に誰に頼まれたわけでもなく、作品として世に出すでもなく、それでも取り憑かれたようにキャンバスを切り付けるように色を付けていく。
 腕を動かす間、瞬きするのすら忘れて食い入るように目の前の布に広がる青を見つめていた。

 そして荒削りな蒼天が20号のキャンバスに生まれた頃、ごく自然な動きで道具をパレットナイフに持ち変え、刃先に何も塗ることなくキャンバスを勢いよく滑らせた。
 勢い余って振り抜いたナイフから削り取った絵の具が床にぽとりと落ち、目の前のキャンバスには袈裟に斬られたように一本線が引かれている。
「勿体無い」
 背後から聞こえてきた声に振り返れば、よく見慣れた友人の顔があった。
「居たの? 来てたなら声かけてくれて良いのに」
「近く通ったんでな、一服しに来た。んで、何も声掛けずに帰るのもと思って。……それどころじゃなさそうだったからしばらく見てたが」
「そう」
……何が気に食わなかったんだ? いい絵だと思ったが」
「難しい質問するね」
 よく描けていようがなんだろうがこうするつもりだったから何がと言われてもちょうどいい理由など思いつくはずも無く。
 台無しになったキャンバスに視線を戻し、まだ乾いていない絵の具をパレットナイフでこそげとり、それを親指に少し取って友人の方に向き直る。
……そもそも手を伸ばす物であって、手に入るのはちょっと違うんだよね」
「何の話……うわ!」
 友人の頬骨の辺りに親指の絵の具を塗りつけ、そのすぐ上の瞳と色を比べる。
「それにこんなので満足できる程、僕もプライド無くしてはないし」
 大嫌いで、それなのに手を伸ばさずにはいられない澄んだ青色は、絵の具の青とは似ても似つかない。
……ともかく、お前の価値観ではまだまだってことか?」
「そんなところ。ほっぺちゃんと洗ってね」
「そもそも人に塗るな、絵の具を」
「ごめんごめん」
 笑いながら彼に背を向け、今度は人差し指でパレットに残った絵の具を適当に混ぜ合わせる。
「……こんな狭いキャンバスに収められるわけないんだから」
 混ぜ合わせてできた燻んだ青をキャンバスの端に少しだけ乗せ、すぐにそれをパレットナイフで削り取った。