描きたい空

 ──気づけばまた、青と向き合っている。

 毎度毎度、この四角と向き合っては違う空を描いている。けれども一度たりとも満足のいくものが描けた試しは無かった。
 それでも手を止められないのは、この空への焦がれが自分の根幹を成している所為なのだろうか。
 しんと静まり返った部屋の中は、時折拭き込む風の音と絵の具を捏ね、キャンバスに塗りつける音だけがしている。
 少しずつ新しい空に染まっていくキャンバスと、自分以外何も存在しないと錯覚するほどに自分の目は20号のキャンバスに生まれつつある空に釘付けになっていた。

 けれど。

 結局今日も完成させることはできないのだ。
 息を吐くのも忘れて衝動に任せて描いて、その熱が冷めないままに自分の手で削り取る。
 何年も繰り返してきた事だった。
 太陽に近づき過ぎた愚か者の羽根を溶かすように、神の領域に届かんと伸びた塔を崩すように、描きかけの空にパレットナイフを滑らせる。

「差し入れ」
 ちょうど手が止まった頃、背後から声がするとともに頬にひやりとした何かが押し当てられる。
「冷た……何?」
「コーヒー。冷蔵庫で冷やしといた」
「あのさ、ここ僕の家なんだけど……まあいいや、コーヒー買ってきてくれたのはありがと」
 渡された缶コーヒーを開け、一気に胃に流し込む。集中した後にはちょうど良く甘ったるい砂糖の味が190mlの缶を空にした後も口に残った。
 軽く伸びをしてから友人の方を見ると、何か思案するような表情でキャンバスを見つめている。
……残念だけど、まだまだ完成は先になるよ」
「ああ、いや、急かすつもりで見てたんじゃない。……なんと言うか……あれだけなんだなと思って」
「だけ?」
「青空の絵」
………………ああ」
「気に障ったか?」
 少し無言になったのをそう捉えたのか、少し申し訳なさそうな声が飛んでくる。
「いや、別にそんな事ないよ。ただ、なんて言うか…………よく見てるなって。そう思っただけ」
「そうか」
 そう答え、友人は自分用に買っておいたのであろう、ブラックの缶コーヒーを開ける。
……空に何か思い入れがあるのか」
「あは、聞いちゃう?」
「話したくなきゃいい。そうでなかったら……俺は聞くつもりだよ」
「じゃあコーヒー飲み終わるくらいまでは付き合ってもらおうかな」

……昔さ、僕を買った人がいたって話しただろ?」
「ああ、芸術家だったか」
「うん。すごい人だったよ。……作品は多分、ほとんど残ってないけど、夕焼けでも、夜空でも、とにかく空を描くのが好きなヒトだった」

「僕、あの人の描く青空が1番好きだったんだ。油絵なのにどこまでも澄み渡ってるように綺麗な青でさ、写真みたいに緻密で、それでいてこの世のものじゃないみたいな不思議な雰囲気で。初めてあの人の絵を見た時は何時間でも、何日でも、何年でも見てられると思った」
……その絵は」
「もう、どこにも無い」
……もしかしてその空の絵はお前の記憶の中の絵を再現しようとしてるって事?」
「そんな烏滸がましい事しないよ。憧れてるのはそうだけどさ」
「そうか」
「僕才能ないし」
……
「笑うとこだよ」
「笑えるか」
……まあいいや、続けるね」
「ああ」
「才能なくてもさ、僕が描くのやめちゃったら……あの人が画家だったって事実が消えちゃう気がしてさ。作品なんて殆ど残ってなくて、本人の生死もわからないから」
…………

「あの人、僕に絵を教える時にさ、『自分の描きたい空を見つけなさい』っていつも言ってたんだよね」
「描きたい空」
「多分、僕が今描いてるのは……僕が本当に描きたいものじゃないんだと思う。……答えが出るまではさ、悪いけど君の依頼は先延ばしになっちゃうね」
「好きなだけ待たしときゃいい」
……気が長くて助かるよ」