最も高くて最も小さい

 友人が自分の絵を見ている様子を、一度だけ見たことがある。
 たまたま絵を描いている途中に席を外していたところで友人が仕事部屋に入ってきたのであろう、主の居ない部屋で描きかけの空と向かい合って立ち尽くしている姿はしばらく経った今でもはっきりと覚えている。
 普段から絵を描いている後ろでその様子を眺めていたことは知っているが、どんな様子で見ているのかまでは知らなかったし、おそらく彼も見せないようにしていたのだと思う。思えば決まって自分が背後を振り返る前に向こうから声をかけてきていた。

 ふと思い立ち0号のキャンバスを取り出して、一辺が20cmにも満たない小さなキャンバスを眺めながら、友人の顔を思い出す。
 正直なところ、草臥れたというか、擦れたというか……とにかく、普段自分の目に映る彼はあまり生きのいい人間ではない。
 けれど、そのどこか達観したような眼に光が入る瞬間は、どうしようもなく惹きつけられてしまう。

 そんなことをぼんやりと考えながら、手は2つ目の空をキャンバスの中に描いていた。

「少し綺麗に描きすぎたかな」
 青空を閉じ込めた瞳の絵を角度を変えて眺め、思案する。
 雲一つない真昼の空のような澄んだ青に散りばめた光はそれこそ星空のようで。
「…………ふっ」
 キャンバスを眺め、自然に笑みが溢れる。

「良い絵だな」

「わ゛ーーーーッッッ!!???」
 不意に背後から聞こえてきた声に驚くのと見られたくないものを見られてしまった羞恥とが重なり、振り返るとか勝手に見られていたことに対して文句を言うとか、そんなことを忘れて持っていたキャンバスを開け放たれた窓の方に向けて投げていた。
「あ」
 はっと我に帰ってキャンバスが飛んでいった窓の方に向かおうとする横を風を切って何かが通る。
 何か言うより早くその背中はベランダの欄干に手をかけていて──
「まって、ここ三階──」
「なら投げてんじゃねえよ馬鹿がッ!」
 悪態を吐くと共にそのまま飛び降りた。
 それから一拍遅れて樹木が大きく揺れる音がする。
「バカはそっちだろ……!」
 手についた絵の具をエプロンで乱暴に拭き、急いで部屋を出る。

 建物から出て、友人が飛び降りたあたりに着く頃には、目当ての物を見つけたらしく満足げに小さな絵を眺めている姿が目に入る。
 見える範囲で大きな外傷が無いことに安堵しつつ、その手の中にあるキャンバスをどう取り返したものかと考えると自然と溜息が出た。
「遅かったな」
「そりゃ飛び降りるよりは時間かかるよ。怪我はない?」
「ああ、問題無い。擦り傷だ」
「はぁ、それならよかった。……でもさ」
 言葉を一度切り、続ける。
「なんであんなことしたの。……まだ仕上げすらしてないしそもそも絵の具も乾いてない……一銭にもならない絵だよ、それ」
「それが分からない程の馬鹿だとは思ってないんだがな」
「察してるだろうにわざわざ聞いてんじゃねえよって話?」
 問い掛ければ、肯定も否定も返さず口の端を持ち上げる。
「……まあいいや、拾ってくれてありがと」
 それを返せと手を差し出すが、彼は後ろ手に絵を自分から隠した。
「ちょっと」
「お前にとっては一銭の価値もない絵なんだろ? なら別に取り返す必要はない筈だ」
「それとこれとは話が別で……」
「俺にとっての価値は今し方少し上がったがどうする?」
 そう言いながら落ちた時に枝に引っかけたのだろう、大きく破れたスーツの袖を見せてくる。
「少しじゃないでしょ」
「さあな?」
「……あーもう、わかったよ。そんなに欲しいならあげるよ、あげるけどさ……ちゃんと仕上げくらいしてからにさせてよ、汚れてないか確認したいし」
 だから一旦貸してと言い換えれば、素直にキャンバスを渡される。
 幸い張ってある布地が破れたり、木枠が壊れていたりはしていないようだった。
「ちゃんと返せよ」
「二言はないよ。それより……スーツ以外にも壊れたりしたものはない? 弁償するから」
「要らん要らん、もう貰ってる」
「…………は、これだから金持ちは」
 随分と高い付け値で買われたことをなんとなく察し、深々と溜息を吐いた。