4.村雨の傘の下で

 その日は朝から空がどんよりと曇っていて、雨の前のような湿った、重たい空気が西京都中に吹き溜まっているような錯覚さえ覚える日だった。
 案の定、昼過ぎ辺りからどんどん空が暗くなり出したかと思えば、授業を終えた生徒たちが家路につく頃には雨が降り出し、各々傘を差したり鞄や上着を傘代わりにして家路を急いだりと降り出した雨に対処していた。
 俺はと言うと、一々細かい同居人に持たされた黒い傘を差して校舎を後にした。
 その日は放課後に本屋のアルバイトがあり、降り出した雨の中、目的の店に向けて歩いている途中だった。
「ん……」
 傘をさしているせいか足元に行きがちな目線をふと上げると、駄菓子屋の軒先で立ち尽くしている人影が目に入った。その人影は傘を持っておらず、大方雨に降られて近くにあった建物に逃げ込んだものの動けなくなった……といったところだろうかと何となく予測がついた。
 近づいていくにつれ、その人影の服装や佇まいに何となく既視感を覚える。もしかして知り合いだろうかと思いながら通り過ぎようとして、足を止めた。そこに立っていたのが、俺が想いを寄せている青年だったからだ。
「傘忘れたのか?」
 声をかければ、彼は一瞬困惑したような表情を見せながらもこちらを見て、納得したような表情を浮かべた。
「そうなんです。帰りに降られてしまって……止むのを待っているんですが、難しそうですね」
 困ったように笑う彼だったが、この様子ではしばらくここで足止めを食らうことになるだろうなと思った俺は持っていた傘を差し出す。
「これ使う?」
「えっ? でも、あなたの傘は……?」
「いいっていいって、まだ本降りじゃ無いし、走れば大丈夫だからさ」
 そう言ってみるものの、傘を受け取ってもらえる様子はない。

「走ればいいのは僕も同じですから」
「え、あー……あ! なら、こうしないか? 俺、向こうに少し行ったとこにある本屋に用があるんだけどさ、そこまでは入ってけよ。その後は走るなり好きにしてって感じで……でも逆方向かもしれないか……」
「方向は大丈夫ですよ。ただ──」
 訝しげな目をこちらに向けてくる。
「特に関係もない他人にどうしてそこまで……とは思ってます。お互い名前も知らなくて、会話をしたことだって殆ど無いのに」
「う……た、確かに」
 こちらを訝しむ気持ちも分かる。図書館で何度か顔を合わせていたとは言え、特にお互い干渉する事もつい最近まだ無かった相手が突然こんなことをしてきたら怪しく思うのも無理はないだろう。
「それは……ほら。困ってそうだったからさ、放っておけなくて」
 これは紛れもない本心である。彼でない赤の他人だったとしても同じ状況に置かれている人間が居たらこうして声を掛けただろう。
 ただ、相手が彼で無ければここまで食い下がりはしないかもしれない、というだけで。
「僕が困ってそうだから、ですか」
「ああ。……これじゃ理由にならないかな」
 彼は少し考えて、それからやれやれと息を吐く。
「お人好しですね。それもかなりの」
 苦笑しながらそう言って、差し出した傘の下に入ってくる。
「善意を無駄にはできませんから。……本屋までお願いします」
「っわ……かっ、た。行こう」
 自分で傘に入るように言っておいていざ距離を詰められると一瞬緊張で息が詰まる。
 その様子を見た彼はと言うと、ぎこちない返答に軽く首を傾げたが、すぐに関係ないと思い直したのか俺の横を歩き始めた。

「……この間といい、今日といい、二度も助けてもらってしまいましたね」
 本屋に向けて歩いている道中、横を歩く彼がそう語り掛けてくる。
「今回も前回もそんなに大層なことはしてないよ」
 謙遜ではなく事実だと思っている。実際、ただ落とし物を拾っただけ、ただ傘に入れただけに過ぎないのだから。
「……あなたはそう思うかもしれませんけど、助けられた側にとっては結構大した事なんですよ」
 その言葉で脳裏に浮かぶのは自分が彼に助けられた時の出来事。
「──知ってる」
 きっとお互いにそう思っているのだろう。手を差し伸べること自体は大したことではない、と。
 すると彼は少し驚いた顔をして、それから少しだけ微笑んだ。
「……ふふ、そうですか」
 五分ほどの道のりがずっと続けばいいのにと感じるのは後にも先にもこれきりだろうなと思いながら、彼の微笑む顔を横目で見ていた。

 目的の本屋に着き、屋根の下で傘を閉じる。
「ありがとうございます、それじゃあ──」
 踵を返そうとする彼の手に半ば強引に先程閉じた傘の柄を握らせる。
「あ、ちょっと!」
「俺、ここで働いててさ。終わるころには止んでるだろうし、もしそうでなかったら店長に借りるからさ」
「そう言われましても……」
 納得がいかない、と言いたげな顔をし、彼は持たされた傘をじっと眺める。
「いつ返せるかもわからないのに」
「別に返さなくても──」
「それは駄目です」
 俺の言葉を遮るようにそう言う彼に思わず気圧される。
「分かったよ、ちゃんと返してもらうから」
 返事を返すと、彼は満足したように微笑みを浮かべる。
「そうしてください。そのほうが僕も借りやすいですから」
 そして貸した傘を持って今度こそ帰ろうと足を踏み出し、それからふと足を止めて何事かを思案した後、こちらを振り返った。
「……次に晴れた日にお返ししますね。では、また」
 軽く頭を下げ、彼は雨の中に歩き出す。雨の中、傘を差して歩く彼の後ろ姿を見つめながら以前自分が言いかけて口を閉ざしてしまった、『また』という言葉をずっと反芻していた。