15.鬼雨に笑う

 出先でバケツをひっくり返したような雨に降られ、たまたま出くわした恋人が近くに住んでると言うものだから急遽家にあげてもらうことになった。
 あまり整頓はされてないからジロジロ見るなと念を押されながら玄関に入ると、言うほど散らかってはいなそうな廊下が見える。
「お邪魔します」
「タオル持ってきますね、少しそのまま待ってて下さい」
 髪から水滴を垂らしながら神崎は玄関からすぐの引き戸(脱衣所だろうか)を開けて部屋の中へ消えていった。
 俺は言われた通りにその場で待つ……程でもなく、すぐに神崎がバスタオルを持って戻ってきた。
「これ使って下さい。乾かす間着替えも貸したいけど、僕の着れますかね……?」
 タオルを渡しながら、神崎は俺の全身を見る。玄関の一段上がったところから見てようやく同じくらいか少し高い程度の身長差があるとなると確かに服を借りられるかどうかは怪しい。
「ま、袖が足りないくらいだろ。借りてもいいか?」
 受け取ったタオルで髪を拭きながらそう返すと、それなら少し待ってるようにと返事が返ってきた。

 言われた通りに待っていると、先に着替えてきたらしい神崎が廊下の奥からやってくる。
「濡れたまま待たせてしまってすいません、とりあえず着替えはこれ使って下さい。脱衣所はここです」
「ありがとな、助かる……あ、靴下まで濡れてんな。脱いで上がった方がいいか?」
「そうですね。濡れたままだと気持ち悪いでしょうし」
 靴を脱いで家に上がろうとしてずぶ濡れになった靴下に気がつき、足に張り付くそれからなんとか足を抜いて素足でフローリングに足を着く。

 脱衣所に入ると真っ先に目についたのは洗濯カゴに入ったままの衣類だった。
 カゴに入っている量からして二日か三日分の衣類だろうか、多忙そうだし洗濯してる暇もないのだろうかなどと余計な事を考えてしまい、慌ててカゴから目を逸らす。

 着替えを終えて居間に戻ると、神崎が濡れた髪をガシガシとタオルで拭っているのが見えた。
 部屋に入ってきたのに気が付いたらしく、こちらを振り返ってにこりと笑みを浮かべる。
「よかった、ちゃんと着れ……まあ、丈が足りないのは仕方ないですね。ところで、部屋は寒くないですか?」
「ああ、大丈夫」
「濡れた服はとりあえずそこの物干しにかけておいて下さい」
「分かった」
 お茶でも淹れようかと提案されるが、お構いなくと返事を返して濡れた服を室内用の物干しに掛け、ソファに腰掛けていた神崎の横に座る。まだ窓の外からは雨が窓を打つ音が聞こえていた。
「雨、止むかな」
「どうですかねえ……」
 壁にかかった時計を見れば、午後一時頃を指している。
「まあ、最悪少し収まったら濡れて帰れば──」
「貸しますよ、傘くらい」
「良いのか?」
「勿論……それよりも、せっかく雨宿りの為に来てもらったのに濡れて帰らせるのは本末転倒じゃないですか」
「……確かに?」
 そう返すと、途端に笑いがこみあげてくる。神崎もそうだったようで二人で笑い合っていれば、不意に手が伸びてきて頬に触れる。
「?」
 雨で冷えたのか、その手はひんやりと冷たい。そういえば彼に素手で触れられた事なんてあまりなかったな、なんて事を考えていると、指先が目の下にできた小さな傷跡をなぞった。
「……傘くらいいくらでも貸してあげますし、何なら雨が止むまで居てくれたって僕は構わないんですよ。君はすぐ自分が我慢すればいいって言っちゃうんですから」
 困ったものですよねと言いながらもその声音には優しさが含まれていて、思わずドキリと心臓が鳴る。
「時と場合にもよりますけど、僕は君が頼ってくれたら嬉しいし、迷惑だなんて思いませんよ。……むしろ頼ってくれない方が僕に頼り甲斐ないのかなとか、信頼してくれてないのかなとか、勿論君はそう思ってはいないでしょうけど……何にせよ考えてしまうんです、余計な事を」
 だからもっと甘えても良いんだと続ける。そんな風に思われていたのかと驚きつつ、申し訳なさが募った。
「ごめん……あ、いや、ありがとう」
 つい謝罪の言葉が口をついて出てきてしまう。すぐに言い直したが、その様子を見た神崎はまだまだ先は長そうだと苦笑する。
「そういうところも君らしいとは思いますが、もうちょっと僕に対してわがままになってくれてもいいと思うんですよ」
「それは……あー、善処、します……」
「ふふ、期待しておきましょうか」
 そこで会話は途切れたが、沈黙が嫌な感じではないのは相手が彼だからだろうか。
 ちらりと横を見ると、ちょうど神崎と目が合う。彼は微笑んで首を傾げて見せるが、俺はどこか照れ臭くて、すぐに目を逸らしてしまった。

 会話が途切れてから、さてどうしたものかと思案していると、隣からくぅぅ、と音が聞こえてくる。音のする方を見ると、神崎が驚いたような恥ずかし気なような表情を浮かべている。
「……昼飯食ってない?」
「お昼にお蕎麦でも食べに行こかと思って出かけたら雨に降られたんです。だから朝から何も食べてなくて……」
「ああ、そういう……何か作るか? 材料があればになるけど」
 材料があれば、という言葉に神崎は考える様にふーん、と唸り、すっと立ち上がる。
「……卵とか調味料位なら……あとはちょっと見てみないと」
 台所に向かう神崎の後に続いていく。台所に入ると、グラスやマグカップが数個置かれたままの流し台やあまり使われていないのだろうか、錆びや焦げ付きの目立たない綺麗なままのガス台が目に付く。
「うーん……諦めて雨が止むまで我慢した方がいいかもしれません」
 冷蔵庫を開けたり棚を眺めていた神崎が残念そうに深いため息を吐く。
「ダメになってたか?」
「いえ……そういう訳ではないんですけど。最近買い物行ってる暇もなかったからじゃが芋と卵しかなくて……」
「それだけあれば十分だよ」
「いいんですか? これだけで?」
「ま、凝ったモンは出てこねえけどそれでよければ」
「そ、それじゃあ……お願いします」
 許可をもらい、使っていい調理器具を借りて一品作ることにした。

 じゃが芋の皮を剥いて細切りに、それをボウルに入れて塩胡椒を少々、そして卵と絡める。……という工程を物珍しそうに背後から神崎が眺めてくる。
「料理、するんですね」
「簡単なモンしか作らねえけどな。これはじゃが芋入りのオムレツ」
 ボウルを置いてフライパンを取り出すと、神崎は一歩離れたところからこちらを見ている。邪魔にならないようにという配慮だろうか。
 フライパンを中火にかけて油を温め、ボウルの中身を流し込む。卵の焼ける音が心地いい。
「大きめの皿ある?」
「お皿ですか? これで良ければ」
 食器棚から出された皿を軽く濯いで水を払い、布巾で軽く拭う。それから半面に焼き色のついたオムレツをひっくり返し、火を弱める。
「料理の本とか読んで覚えるんですか? こういうの」
「これは千秋……ええと、俺の従弟に教わった奴。オムレツって言ってたけどどっちかと言うとお好み焼きっぽいよな、これ」
「ふふ、確かにそうですね」
 楽し気に笑いながら、神崎は音を立てて焼けていくオムレツ……のようなものをじっと眺めている。
「そんなに物珍しそうな目で見る?」
「いえ、その」
 言い淀むかと思えば再びくぅぅ、と音が聞こえてくる。
「……お腹、すいちゃって」
 恥ずかしそうに俯いて腹を押さえている神崎が何となく微笑ましい。
「もう少しでできるから、机拭いて待ってな」
「すみません、急かしてしまって」
「気にすんなって」

 出来上がったものを皿に移して食卓へ運ぶ。神崎はいそいそと席について手を合わせた後、箸を手に取った。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
 そして湯気を上げているオムレツに嬉しそうに箸を入れ、一口分に小さく切ってから口に運んでいく。
「ん……、うん……うん、おいしいです」
「そうか、良かった」
 喜んでぱくぱくと食べ進めていく姿は作った側としても嬉しいもので、ついじっと眺めてしまう。
「何ですか?」
「いや……こんな誰でも作れそうな料理でいいのかなって思ってさ」
「誰でも……」
 神崎はオムレツを見つめて眉間に皺を寄せる。一気に凍りつく空気に『地雷を踏んだのでは?』という考えが頭を過ぎる。
「あのですね、誰でもって君は言いますけど、できない人も居るんですよ!」
「わ、悪い。怒るとは思わなかった」
 慌てて謝れば、神崎は悲しげに溜息を吐く。
「……悪気はないのは勿論分かります。君がそういう人じゃないのはよく分かってますから」
 でも、と一度言葉を切り、さらに続ける。
「苦手、なんです。料理……と言いますか、家事全般と言いますか……そもそもやってる余裕も無いし……」
 しゅんとしながら吐き出される言葉に、ふと今日見た物が思い返される。
「やらなきゃやらなきゃとは思ってますよ、でもそもそも慣れてないから手際も良くなくて時間だって沢山かかるし、仕事が終わって帰ってきて、それからもたもた家事してる元気も時間も──」
「ふーん? それなら俺がやろうか、それ。一人分も二人分も手間は似たようなモンだし、つい最近まで一人居候居たから慣れてるし」
「は」
 神崎は何を言ってるんだ、と言いたげな顔でこちらを凝視してくる。
「もしかして一緒に住もうって、そう言ってます……?」
「? そうだけど」
「え、あの、それって──」
 目を白黒とさせながら言葉を探し始める神崎。
「……? お互いに悪くない話だと思うけど」
「いや『お互いに』ではなくないですか⁉ どう考えても僕の方が得をして……」
「そこはほら、家賃とか光熱費とかを折半できるし」
「その利点は僕も享受する物なんですよ! 思うんですけど君十割紛れもない善意でこの話してますよね⁉」
 そんなにおかしなことは言っていない筈なのに神崎はなかなか首を縦に振らない。
「あ……もしかして……嫌か?」
「あ、あの! 嫌とかそういう問題ではなくっ……君は意識してないのかもしれませんけど、というか意識してる気配が見えませんけどっ! 僕がいいって言ったらその……つまり……同棲……ということに、なってしまうじゃないですか」
 少し頬を赤く染めている神崎を見て、そこで初めて自分が余りにも唐突にとんでもない提案をしていることに気が付いた。
 これは少しの未来の話になるが、近い未来で従弟にことの次第を話す事になるし、その際にひどく簡潔に、それも真顔で馬鹿なのかと言われるのが決まっている。
「あっ、え、そ、そうか、そうなるか……」
「そうなりますよ……?」
 呆れたように息を吐く音が聞こえる。
「いやその、俺はただ単にお前が大変そうだからどうにか負担減らせたらなって……俺は仕事の合間に家事するのは苦にならねえし……いいかなと……」
 そう言うと神崎は何か考えるように顎に手を当て、それからやれやれと溜息を吐く。
「……君の事、かなりのお節介焼きだってことは何となく分かってましたけど……純粋なお節介でそんな提案までしてくる人とまでは思ってませんでした」
「それはその……褒めてるのか……?」
「どちらかと言えば呆れてます」
「デスヨネー……」
「……ふふ」
 ショックを隠し切れない俺に、神崎はくすりと笑ってみせる。
「……でも、本当にいいんですか? 多分、とても甘えてしまうと思うんですが」
「良いよ、そうして欲しいから言ってる」
「……ああ、もう。分かりました」
 少しだけ答えに迷った様子で、そうぽつりと呟く。
「その、これからよろしくお願いします」
 顔を少し赤らめながら頭を下げる神崎を見て、何故かこちらも顔が仄かに熱くなるのを感じた。
「ああ、こちらこそ……よろしく頼む」

 こうして共同生活をする事が決まり、その準備や手続きをしていくことになったのだが、その頃になってようやく自分がとんでもない事を一日の、それも一時間も話し合わないうちに取り決めてしまったと自覚する事になるのは言うまでもない。