高校を卒業してからというもの、神崎の言っていた通り図書館に行くことは少なくなった。そのまま月日は流れ、劣化しないように丁寧に扱っていたつもりの文庫本も、何度も読み返したせいで少しだけくたびれてきてしまっていた。
顔を合わせていなければ次第に忘れ去られていくかと思っていた彼への感情も、本棚に収まった本の背表紙を見るだけで鮮明に思い起こされてしまうのだから女々しいと言うか、未練がましいというか、とにかく自分に呆れるばかりである。
「はい、できました」
「ありがとうございます」
固定した腕を布で吊られ、処置をした医師に深々と頭を下げる。
「お大事に。少なくともくっつくまでは左腕は使わないように。全く、駅の階段から転がり落ちて打撲と腕の骨折だけで済むなんてラッキーな方だ」
「はは……」
医師は呆れたように皮肉を並べてくる。そう言いたくなる気持ちもわからないわけではない。駅の階段で転んだ子供を助けて自分が骨を折るなんて本末転倒な行動をしたのだから自分を大切にしろと文句の一つも言ってやりたくなることもあるだろう。
「けどまあ、結構きれいに折れてたから、くっつくのも早いと思うよ」
「不幸中の幸い……ですかね」
誤魔化すようにへへ、と曖昧に笑い、処置室を出る。大きな病院だから会計や薬の処方まで時間がかかるだろうと踏んで軽く周辺を散策することにした。
院内には花壇やベンチのある中庭があり、入院患者や自分と同じように会計を待つ患者が散歩をしたり、座って本を読んだりと思い思いに過ごしている姿が見えた。
「少し休むか」
空いているベンチに腰を下ろす。ただ、利き手が自由だからと言ってこの腕では本や雑誌を読むこともできず、中庭にいる人々を眺めるか、ただぼうっとしていることぐらいしかやることは無い。それでも五月晴れの暖かな日差しを受けていると気分が上向きになる気がする。病は気からともいうし、このまましばらく日に当たっているのもいいだろう。
「あの……」
そんなことを考えながら日差しの気持ちよさに目を細めていると、背後から声をかけられる。
何となく聞き覚えのあるような声が誰だったかと考えながら声のする方を振り返る。
「ああよかった、人違いじゃなかった」
「──、」
驚きで言葉を失った。そこに居たのが、ずっと再開を待っていた神崎尊その人だったからだ。失礼だとは思うが、神崎の風貌を見てみると、白衣を着ているところから患者ではないようだとわかる。
「その白衣、患者じゃない……よな?」
「ええ、研修医です」
「医者になったのか? 凄いな」
「まだ卵ですけどね。……ところで雨沢さん。どうしたんですか、それ」
神崎は俺の吊られた左腕を指して訝しむような顔をする。
「駅の階段から落ちてさ」
「それで病院に来てたんですね。他に怪我は?」
「ないよ。あっても打撲位だって」
生活にはかなり支障が出そうだけど、と付け足すと、神崎は困ったように笑う。
「無事……ではないですからあまり良かったと表現するべきではないと思いますが……命に別条がなくてよかったです」
「ホントにな。運がいいって言われた」
ふふ、と控えめに笑う神崎の笑顔は以前と何一つ変わらない。それが無性に嬉しくて、俺は思わず笑みを零してしまう。
「雨沢さん?」
「ん、いや、なんでもない」
久しぶりに会ったせいか、どうにも感情を抑えきれていないらしい。それを自覚すると恥ずかしくなって顔が熱くなる。誤魔化すように話題を変えた。
「あー、そういや、本借りたままだったろ。アレ、持ってくればよかったな」
今家の本棚に並べられている本の話題を出して興味を逸らそうと試みる。神崎は少し考えた後、ぽんと手を打つ。どうやら目論見は成功したようだ。
「ああ、あれですか」
「……その、暇なときにでも返しに行くよ。だからさ」
連絡先を聞いてもいいかと尋ねると、神崎は何一つ疑う様子もなくもちろん、と答え、白衣のポケットから取り出した付箋にさらさらと何かを書き、手渡してくる。
「これ、僕の家の電話番号です」
「じゃあ俺のも──って、この腕じゃ机とか使わねえと書けねえな」
どうしようかと辺りを見回していると、神崎が付箋の束を持った手をこちらに差し出してくる。どうやら自分の手で支えるからそこに書けと言いたいらしい。
「じゃあお言葉に甘えて……と」
慣れない書き方で多少字がふにゃふにゃになったが、十分読める字が書けた。
「ふふ、ありがとうございます」
書き終わった付箋をポケットに入れながらそう呟く声音が心なしか嬉しそうに感じたは俺の気分がいいからなのだろうか。
「それじゃあ、雨沢さん。『また会いましょうね』」
「……ああ、『またな』」
神崎に別れを告げてベンチから立ち上がる。時計を見ると、俺が中庭に来てからちょうど一時間が過ぎたあたりを指していた。