19.天隠す酒涙雨、雲を裂いて神立

 がちゃり、と鍵が回る音が部屋の中に響く。その音に気付いた尊が音のする方へ向かうと、ただならぬ様子の恋人が玄関の扉を開けて入ってきたのが見えた。
 靴を脱ぐでもなく壁に体重を預けてぼんやりとしている恋人に駆け寄ると、顔は赤くなっているし、しきりに開閉を繰り返している瞼は重たそうだった。
「……ああ! お酒飲んできたんですね。顔が赤いですよ」
 珍しく酔って帰ってきた恋人の背中をさすりながら合点がいったと言うようにうんうんと頷いている神崎に、恋人は寄りかかるように体重をかける。
「ただいま……」
「はい、お帰りなさい。時也君」
 尊が放っておけばそのまま床に倒れ込んで眠ってしまいそうになっている時也をなんとか支えてベッドまで歩かせると、力尽きたようにベッドに寝転がる。
「吐き気とかありませんか?」
「ん……多分」
 時也の返事に尊は安心したように胸を撫で下ろす。
「それなら良かったです。何か飲み物を持ってきましょうか」
 首が小さく動いたのを肯定と取った尊は寝室から出て台所に向かう。

 それから台所で干しっぱなしにしてあった大きめのグラスを手に取り、蛇口に近づけるも、何か思案するような仕草をしてから手を引っ込める。
「冷たいものの方がいいかな」
 手に取ったグラスを食器棚に置き、尊は冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中には二人で暮らすには十分な食料や飲料、所々に洋菓子が無秩序と言う程ではないがかといって整頓されているとも言いづらい様相で入れられていた。
「あ……これ、まだ残ってたんだ」
 数日前に尊が職場で貰ってきた缶ジュースが一本残っていたらしい。それを取り出すと、尊は寝室に戻っていった。

 寝室に入ろうとドアノブを回した時、中から溜息を漏らすような声が聞こえてきた。
「時也君? 大丈夫……ですか?」
「なんか、迷惑……かなって……」
 溜息の主に声をかけた尊に、申し訳なさそうな声で時也は返した。尊はそんな事ない、と返すとベッドに腰掛けてよく冷えた缶を項垂れている恋人の額にくっつけた。
「冷て……」
 よく冷えている物が良いと思った、と告げる尊に短く礼を返すと、そのまま缶の冷たさを額で味わい始めた。尊はそんな時也の様子を横目で眺め、それから空いた手でその頭をそっと撫で始めた。
「友達とお酒飲みに行ったんですよね、確か。楽しかったですか?」
 問いかけに曖昧な返事が返される。曖昧ではあったが、返事と共に微かに首が盾に動いたのを尊の手は確かに感じ取っていた。
「ふふ、良かった」
 少し硬めの黒髪を指先でくるくると弄んだり、耳元をくすぐるようにして触れたりしながら尊は小さく笑う。
「……あれ、眠ってしまったんですか?」
 しばらくそうしていると、いつの間にか時也は寝入ってしまったらしく、規則正しい寝息を立て始めていた。
「明日二日酔いしますよー」
 頬をつんつんと人差し指で突かれても寝息が途切れる様子はない。尊はそれを確認して、そっと肌掛けを時也に掛ける。肌掛けが振れる感触からか少しだけ身を捩ったが、起きる気配は無い。
 しばらくその場に留まって起きる気配のない恋人の頭を撫でてみたり頬や唇に触れてみたりを繰り返していた尊だったが、時計の短針が十二時を少し過ぎたあたりでうつらうつらと首が揺れ始める。
「……僕も寝ましょうかね」
 そう呟いた尊は軽く伸びをして、寝入っている時也の横で布団を被る。
「おやすみなさい、時也君」
 尊が声をかけると、今度はうにゃうにゃと言葉にならない音を発され思わず吹き出す。返事を返しているつもりなのかと気になったのか、眠気に襲われていたことなど忘れて時也に語り掛け始めた。
 目を覚ましこそしないものの、その語り掛けに対して律儀にうにゃうにゃと音で返す様子が堪らなく愛おしい、そう言いたげな笑みで尊は時也の頭を撫でた。
「……ねえ、時也君」
 先程の朗らかな表情から一転、どことなく熱を持った眼差しで尊は眠り続けている時也を見つめながらぽつりと零す。
「君はこれから先、僕と……どう、なりたいですか?」
 返事は返ってこない。
「……なんて、はは……寝てる人に何聞いてるんだか……」

「────」

 背後から消え入りそうな声が聞こえてくる。呼吸音と間違えそうなほどに微かな空気の振動であった。けれども部屋の沈黙と、尊の耳ははっきりとそれを声として拾ってしまう。
「……は、え」
 尊の顔がみるみるうちに紅潮していく。その原因になった言葉の主は、そんな事などつゆ知らず、再び規則正しい寝息を立て始めている。
 朝日がカーテンの隙間から差し込み始めるその時まで、尊は眠ることができなかった。